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教科書には載っていない 日本史歴史人物の「結婚事情」 大隈重信編

投稿日時:

okuma

大隈重信

(1838~1922)明治・大正期の政治家。
新政府で要職を歴任していたが伊藤博文と対立し辞職。
その後立憲改進党を結成する。

明治三十一年(1898)、板垣退助とともに初の政党内閣を組織し、首相となる。
早稲田大学の創立者としても知られる。

いつも一緒だった仲良し夫婦

大隈重信は人生で2回結婚をしています。
一度目は佐賀で美登という女性と結婚しましたが、縁が薄く明治維新の前に離婚してしまいました。
二度目の結婚は江戸築地生まれの綾子という女性でした。
綾子は旧旗本の娘で八百石を領する一族の娘でした。
母親譲りの美貌をと気品を兼ね備え、武家家庭で育ち礼儀作法もしっかり身につけていました。
重信にとって最高のお嫁さんでした。
一方の重信は十三歳で父を亡くし、母親に育てられました。
几帳面で度量が大きく、けして人を咎めない寛大な母親でした。
そんな中で重信は来客好きで楽天家な性格へと成長していきました。

互いに共通するのは母の強い影響を受けて育ったということです。
お互いの人格を認めあい、良きパートナーとなりました。
大隈夫妻は生涯、仲の良い夫婦で佐賀に帰郷する時も、社寺に詣でるときも、必ず傍らには夫人がいました。

妻が大活躍

二人は結婚してすぐに江戸の築地に五十坪の土地を官から賜ります。

新婚の場とするとともに、多くの友人、門人、食客が集まり、世に「築地の梁山泊」と称されるほどだったそうです。
さて、そんな中重信は大蔵役人に洋服を着せようと思いつきます。
この時に活躍したのが綾子です。
生地の見立てを綾子に頼み、買い物に同伴させたのです。
今でいうコーディネートですね!(●^o^●)
まだチョンマゲの世の中になんとも大胆な発想の重信です!

こんな逸話もあります。
旅先で寛ぐ重信に綾子がキセル(煙草を棒の先に詰めて吸う)を差し出すと、重信は煙草を刻んで詰めて返しました。
そしてそれを綾子が受け取り、火をつけ吸ったそうです。
男尊女卑の考え方だった時代にありえない行動です。
これは大変勇気のいる行動だったのです。

妻は「うちの番頭」

綾子は頭の回転が速く、決断力に富んだ人物でした。
重信は「うちの番頭」と言っていました。
早稲田の庭園で園遊会中に突然の雨に見舞われた際、外国人客が多かった事をとっさに考え、「濡れた靴のまま中に入っていい」と呼びかけました。
敷き物は台無しになりましたが、来ていたのは各界の人物ばかりです。
土足で上がる姿を見て止めていたものなら、不快に取られていたことでしょう。
重信もこの機転にただただ脱帽するばかりだったと言われています。

また、重信が馬車に爆撃を打ち込まれ瀕死の重傷を負った際のエピソードも残っています。
こんな事態に手術をするかしないかを親戚で話している場合ではないと、綾子は考えました。
医者に「全て私が責任を負う」と言い、重信の大手術を行わせたのです。
この手術で重信は命拾いしました。
術後の傷口が化膿し大変な苦痛に見舞われていた重信を退院した二ヶ月後まで看病し続けたのもまた、綾子でした。
綾子はこの間、帯を一度も解いていません。
それほどまでに寄り添い看病をしていたのです。

長生き五法

重信は当時としては大変珍しい長寿で八十五歳まで生きました。
これもひとえに綾子がいたからでしょう。

二人の間にはこんな約束事があり、毎日励行していたと言われています。

・怒らない
・愚痴をこぼさない
・過去をかえりみない
・望みを未来に置く
・人のために善をなす

重信がこの世を去った後、あとを追うようにして妻綾子も翌年七十三歳で他界しました。
互いを理解し合い、寄り添い共に過ごし、愛し合っていた大隈夫妻。
私もこんな素敵な夫婦になりたいと思いました(●^o^●)